Lieben Duft


 その瓶はよほど重力に好かれていたらしい。イングラムが顔を上げたのとほぼ同じにそれが二人の上に落下してきた。

 ぴしゃん

「…うくっ」
 液体の冷たさに呻き声がもれた。

 かしゃんっ

 空になった瓶は床に落ちて砕けた。
 そして…。
「……」
「……」
 無事だったイングラムと頭から薬品を被ったユーゼスがそれぞれ瓶に手を伸ばした格好のまま、お互いに顔を見合わせていた。
「ゆ、ユーゼス!」
 沈黙を破ったのはイングラムだった。
 棚に並んでいたのは薬品の類い。落ちてきたのが劇物である可能性は十分ある。
「大丈夫か!?」
「ああ…すまないが向こうの棚にあるタオルを取ってきてくれないか?」
 ユーゼスは冷静にそう言うと、床に散乱する瓶の破片を慎重に拾いはじめた。
「これか? ゆーぜ…っ! やめろ、手を切るぞ」
 と言っているそばから、
「つぅ…」
 破片で指を切ったユーゼスがぱっと破片から手を離した。
「破片は? 入っていないか」
 ユーゼスの頭にタオルをかけてイングラムはユーゼスの切った手を掴んだ。
「っ! イングラム!?」
 そして迷うことなくそれをくわえ込んだ。
 舌先が傷口を這う感覚。
 ユーゼスは動けない。
「……」
 傷口を舐めるぴちゃっという濡れた音だけがしんとした室内に響く。
 しばらくそうしていてイングラムはようやく指を離した。
「後でしっかり消毒しておいた方がいい…ユーゼス?」
 そこでようやくイングラムは相手が固まっていることに気づいた。
「貧血か?」
 にしてはそれほど顔色が悪いわけでもない。むしろ少々赤くなっているようにも見えた。
「ユーゼス?」
「あ、ああ…わかった」
 頭のタオルで表情を隠すようにしてユーゼスが言う。
「…これでは白衣も駄目か。イングラム。同じ棚から白衣の代えを取ってくれないか」
 髪についた薬品をタオルで拭っていると、さらりとグレーの髪が揺れた。
「わかった…?」
 そう言ってイングラムがきびすを返そうとした時、ふと何かが鼻をかすめ眉をひそめる。
「どうした?」
「いや…」
 あいまいな返事をして棚へ向かう。
 あの時感じたのは微かに鼻をくすぐる甘い香り。
 かいだ瞬間、軽く目眩がした。
「これだな?」
 几帳面にたたまれたそれを手に振り返る。
 そしてそのまま固まった。
「ああ…しかし、これは……? どうした、イングラム」
「…いや…その……」
 くちごもるイングラム。
 心持ちその頬が赤い。
(…どうした…なぜ)
 イングラムはどうしてか動悸が激しくなって途惑っていた。
「は、白衣だ」
 らしくもなく動揺しつつ白衣を差し出す。
「ああ」
 首を傾げつつユーゼスが近づくと。
 ふわり、と香りが強くなった。
 同時に動悸が一段と激しくなり体温が急上昇。背に汗をかきはじめた。
「まったく…この棚は」
 ぶつぶつ愚痴をこぼしながら薬品による染みのできた白衣を脱ぎ、その下のシャツも脱いでしまおうと裾に手をかける。
「だから早く直せと…イングラム? どうした」
「……」
 そこで初めてユーゼスは相手の異変に気づいた。
「気分でも悪いのか?」
「い…や、大丈夫だ」
 ぎこちない返事。
「そうか?…それにしても空調の調子が悪いな。電気系統がまた故障したのかも…」
 襟元に指を入れてぱたぱたと空気を入れると、香りが更に強まった。
 ふらりとイングラムの体がよろめく。
「…っ」
「本当に何ともないのか?」
 慌てて肩を掴み支えると、ぴくんと身体を強張らせて彼は視線を反らす。
「…」
「熱はないな」
「!!?」
 こつんと額を合わせてユーゼスは呟く。
 間近に迫るその顔。唇にかかる相手の吐息。
 顔を離すとイングラムは顔を赤くして額に汗をかいていた。
「ユーゼス…その、体が熱い。…それに脈が高い。息苦しい」
「体温・脈拍の上昇、さらに呼吸困難。ほかに症状は?」
「…それだけ、だ」
 別に頭が痛いとか胸が苦しいといったことはないらしい。
「ふむ…」
 ユーゼスは考え込む。
「ユーゼス」
 とイングラムが言った。
「なんだ?」
「その…白衣を着るかどうかしたらどうだ?」
 シャツまで脱いでしまったユーゼスは上半身裸で考え込んでいた。
 滅多に人の来ない実験室だがいつ誰が来るかわからない。とりあえず素肌の上に白衣を着て再びユーゼスは考える。
「いつからそうなった?」
「…さっき、タオルを取りに行った、時…からだ」
 と、ユーゼスは思い立って破片の散乱する床を見た。
 瓶に張られたラベルはかろうじて原形をとどめていて、指を切らないように慎重に指先でつまみあげる。
「…なるほど」
「なにか…わかったのか?」
 乱れた息の合間にイングラムが尋ねる。
「原因はこれだ」
「?」
 つまみ上げられて目の前で揺れるラベルをきょとんと見る。
「これは最近私が暇つぶしに調合したものだ」
 ちなみに人体に害はない。
 言われてほっとするイングラム。
「何かで実験しようと思って置きっぱなしにしていたものだが…少々厄介なものが微量だが含まれている」
「厄介な、もの?」
 すると、ユーゼスはラベルの一点を指差した。
 そしてふっと微笑む。
(な…なっ!?)
 同時にイングラムの体温は赤マル急上昇。脈拍はあっという間に250を突破した。
 最後の気力を振り絞ってラベルに視線を移す。
 そこには瓶に入っていた液体の主成分が書かれていて。
「……」
 その中にイングラムは恐ろしいものを発見してしまった。
「…フェロモン?」
 割合にしてしまえば微々たるものだが、確かのラベルには“フェロモン”と書かれてあった。
 一体ユーゼスが何の目的で調合したのかは謎だが、イングラムは体の変調の理由がはっきりわかった。

 というか、わかってしまった。

(つまり…オレは)
 さぁーっと赤かった顔から血の気が引いていく。
「そういうことだ」
 そしてユーゼスの微少に再び赤面。
「……」
「……」
 両者沈黙。
 そんな状態で一分ほど固まった後、ふと思い立ってユーゼスがイングラムの首に腕を回した。
「なっ…」
 そうして相手の頭を自分の首筋に押し付けてその耳元に囁く。
「ところで聞くが、私からどんな香りがする?」
「かお…り?」
 しかしイングラムはそれどころではない。
 ユーゼスの体温に温められた上に普段より高い室温のため、薬品はめ一杯気化してその香りはかなり強烈。
 目眩どころの話ではない。
 もう何がなんだかわからなくなってきていた。
 その様子をさも楽しそうに見て、ユーゼスは喉の奥で小さく笑った。
「どうした? 黙っていてはわからない。イングラム、どんな香りだ?」
「……」
 言うまでもなくイングラムにはもはやユーゼスの声は届いていない。
「くくくっ…」
 再び小さく笑うと、ユーゼスはその体を離し棚から事の発端の資料を取りイングラムに渡した。
「ほら、Dの資料だ。せいぜいがんばりたまえ」
 よく分らないまま資料を押し付けられ半ば追い出される形で実験室を出ると、やっとおかしくなっていた体が落ち着きを取り戻し始める。
「何、だったんだ? あれは…」
 それから数日、イングラムはどこかぼんやりしていたという。
 しかし本人はその理由について一切語ろうとはしなかった。
 ただ、それ以後ユーゼスが行方不明になるまで科学特捜隊基地に行くことを頑なに拒み、それについても理由は一切言わなかった。
 しかも理由を問われる度に酷く狼狽しながらしどろもどろ言い訳をするので、その姿に仲間の誰もがいぶかしんだという。


 一方ユーゼスはというと。
 手早く作った中和剤で薬品の効果を早々に消し、室内の換気をしつつ後片付けをしていた。
「ふむ…偶然とはいえいい実験になった」
 そしてくしゃりと髪を無造作にかきあげて苦笑する。
「さて、香りに当てられてのはどちらだか…」
 微かに自嘲の混じった呟き。
 うつむいたその顔からは表情は読み取れなかったが、その口元は確かに笑いの形に歪められていた。

 資料を手にTDF基地に帰還したイングラムがふと鏡に映る自分の首筋にうっすらと赤いキスマークを見つけて、慌てて仮眠室に駆け込んだのはちょうどそんな頃。


 しかし何故ユーゼスが大気浄化弾の調整もせず媚薬じみた薬品の人工生成に熱中していたのか、さらに何故イングラムがときめいてしまった(笑)のかは謎である。


 まあ、世の中知らないほうがいいことの一つや二つ、あるのだろうけど。



Fin.


言い訳じみた後書き
こっちはこれで終わりです。
もう一方はこれと大体反対のお話。しかもちょいヤバげ...かも。

イリアスさま、こんなかんじですがいかがでしょう?