Lieben Duft 実験室内にユーゼスの姿はなかった。 「出かけているのか」 どうやら行き違いになってしまったらしい。 「…待つか」 イングラムは手近なイスに腰を下ろし、しばらく待つことにした。 「……」 ふとした時に訪れるゆったりと流れる時間に身を置く瞬間。 戦いという刹那の中に身を置く者としては、こんな瞬間に安らぎを感じたりする。 (たまにはこんなのも悪くないな) 肩に力の入りっぱなしの日々。嫌だと思ったことはないが時々ふと思う。 平和になったら自分たちはどうなる? 今からそんなことを考えているなど、まさに“取らぬ狸のなんとやら”だが、戦いのない世界に果たして自分は必要とされるのか。 戦いに身を置く者は一度は悩む問題である。 それにイングラムの場合自身の過去の記憶もない。 いつか戻るかもしれないが、完璧に戻るという保証はどこにもない。 (…オレは、誰なんだ) 時々飛ぶ鳥が羨ましくなる。 記憶がないことは決して“自由”なわけではない。むしろ“記憶がない”ことに縛られてしまう。 自分は何者なのか。 どこから来て、何をして。 そしてどこへ行くのか。 「ふぅ」 らしくもなく、イングラムは深くため息をついた。 「…遅いな」 時計を見るとここに来てすでに十分以上が経過していた。 (外に出ているのか?) なさそうで、でもありえそうな可能性。 (確か…奴も自然が好きだと言っていたな) 片方の手で事足りるユーゼスとの会話の中で一度だけその話題が上った時があった。 その時彼は驚くほど嬉々とした表情で地球の自然は素晴らしいと手放しに褒めていた。 この奇跡のような自然を破壊する人間は愚かだ。とも言っていた。 「だから私は早く大気浄化弾を完成させて地球環境を再生させたいのだよ」 こんなに自分の夢を熱く語るユーゼスは見たことがなかった。 イングラム自身も自然が好きで時間があると公園や近くの森に足を運ぶ。ユーゼスに共感する部分も多くある。ただ、この時代の人間で唯一自分の正体に気づいている彼だけに何よりも先に警戒してしまう。 同じ時代の人間だったらきっと誰よりも分かり合えたかもしれない。 −−−例え今のように記憶を失っていても。 * * * しばらくしてユーゼスが実験室に帰ってきた。 「ユーゼス…勝手に入っている」 「ああ…待たせたな」 どうやら誰かに聞いて急いで戻ってきたらしい。 「そこの棚にある」 ユーゼスの指差すの棚の上段には無造作に置かれた紙の束。 「これだな」 一応確認してそれに手を伸ばす。 棚はかなり高くイングラムでも本当に伸ばさないと手が届かない。 「…」 イングラムが棚の中段に手をかけた。 「っ! 止めろ、その棚は…」 すると、さっと顔色を変えてユーゼスが叫び慌てて駆け寄ってきた。 ぐらり、と棚が大きく揺れる。 かなりの大きさのそれがこちらに向かって倒れてくる。 (何!?) イングラムは予想もしていなかったことにらしくもなく慌てた。 そうだろう。まさか実験室の棚の立て付けが悪くて、ちょっと触れただけで突然倒れてくるなど誰が思うだろうか。 「ぐっ…」 とっさに二人で必死に体重をかけて何とかバランスを取り戻す。 ゆらゆらと危なっかしく揺れていた棚が安定したのを確認して、二人で同時に深いため息。 「…ふぅ」 そして二人で同じように、思わず棚に手をついてしまった。 それがいけなかったらしい。 がくんっ 「っ!!?」 急いで手を離したから棚が倒れることはなかったが、この揺れで棚の上段に置かれていた瓶の一つが大きくバランスを崩した。 しかし二人はまだ気づいていない。 かたんっ 「ん?」 イングラムが物音に気づいた。 「何か音がしなかったか?」 「何?」 かたんっ 再び小さな物音。 「…?」 二人で辺りを見回す。 と、ユーゼスが棚の上で危なっかしく揺れる瓶に気づいた。 「! 危ないっ」 ユーゼスの声にイングラムがはっと棚を見る。 その瓶はよほど重力に好かれていたらしい。イングラムが顔を上げたのとほぼ同じにそれが二人の上に落下してきた。 ぴしゃん 「…うくっ」 液体の冷たさに呻き声がもれた。 さて、ここで質問。 棚から落ちてきた薬品入りの小瓶。中身を被っちゃったのはどっちだと思う? →ユーゼス or →イングラム |